般若心経の漢訳や西遊記を書いた玄奘三蔵法師とはどんな人?(4話)
初心者のためのやさしくて詳しい「般若心経」解説 その4
『般若心経』を漢訳した玄奘三蔵法師の三蔵とは?
お経を内容別に分けると経・律・論(きょう・りつ・ろん)の三つに分類されていて、経蔵というお釈迦様の教えをまとめたもの、律蔵という僧団規則・道徳・生活様相など決まりをまとめたもの、論蔵という律蔵と経蔵の注釈や解釈を集めたものから構成されています。
これを三蔵とよびます。
またこの三蔵に精通した僧侶(法師)のことや訳経僧のことを三蔵法師と呼びます。
この三蔵法師は、日本では中国の伝奇小説『西遊記』に登場する人物「三蔵法師」として特に有名です。
三蔵法師というのは一般名詞であり、尊称であって、個人名の固有名詞ではありません。
西遊記の玄奘三蔵法師(げんじょう さんぞうほうし)は、玄奘という名前の三蔵法師で、数ある三蔵法師のうちのひとりです。
では,玄奘三蔵法師はどのような人物だったのでしょうか?
今から1300年以上も前の中国唐(とう)時代の頃。
玄奘三蔵(600または602~664)は、幼い頃両親をなくし、13才のときに僧侶となり玄奘と名乗ります。
当時の人としては大変体が大きい人でした。
でも、体格とは正反対に性格が穏やかで、しぐさが優雅な人だったようです。
629年の秋、26才で西安市[昔の長安(ちょうあん)]からインドへ無許可で出国します。
生年と出国の時期については諸説があり、2~3年程度の幅があります。
玄奘が活躍した時代は、現在のような交通機関はもちろんありませんでしたから、馬に乗ったり、歩いたりして、天竺(てんじく、今のインド)へ行ったわけです。
中央アジア、アフガニスタン、パキスタンを通って目的地のインドに向かうルートです。
途中にはゴビ砂漠やタクラマカン砂漠などという難所もあり、恐らくは死を覚悟しての旅だったと思います。
では、その目的は、「正しい本から仏教の研究したいから、インド行ってきます」と自ら出立を決めているのです。
長安を出発の時に40人居たの同行者は、途中の猛獣・山崩れ・急流などで死者続出し、3年後には玄奘ただ1人という苛酷な旅だったと云います。
天竺到着後は、懸命に仏の教を学び、数々の苦難を乗りこえ、約16年間ついやしてインド各地をまわり、645年に馬20数頭分の経典や仏具などを持ち帰りました。
主なものは仏舎利150粒、仏像8体、経典657部です。
仏舎利(ぶっしゃり)とは、入滅した釈迦が荼毘に付された際のご遺骨のことを云います。
インドから経典を運んだ僧侶はたくさんいます。
名前が明確な人だけでも150人程といわれていますが、玄奘三蔵法師は質、量ともに記録的なものです。
また旅行中に記録した地理のようすや風俗、天文、数学、医学的な分野のものまで含まれています。
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国禁令を犯して外国に出た玄奘の帰国
中国の思想に、その者の志が高ければ罪を許す、というものがありました。
国禁令を犯して外国に出た者でも、その価値があれば祖国に戻れるという価値です。
もちろん価値がなければ即死罪です。
当然、玄奘にはそれ以上の価値がにありましたので、帰国の際は皇帝の使者が国境まで出迎えるほどの大歓迎を受けたそうです。
そして、役人就任の条件で皇帝に許されます。
しかし、経典の翻訳が自分のやるべき仕事であると主張します。
そして、ついに皇帝を納得させ、逆に翻訳事業に多くの協力を得させたのでした。
そして大量の仏典が漢語に翻訳されました。
中国に帰ってからの20年余の間に、76部1347巻というものすごい数のお経をインドの言葉から中国の言葉、つまり漢字に翻訳したのです。
その中の一つが『般若心経』なのです。
また、17年もの間、中央アジアやインドの仏教ゆかりの地を巡礼した玄奘は、不退の志によって支えられた求法の旅は、有名な『西遊記』の題材ともなり、旅の見聞録として翌年に著したのが「大唐西域記」。
日本でもお馴染みです。
そこに記された内容は、現在では貴重な歴史資料となり、仏教遺跡の発掘・研究に役立てられています。
ナーランダ仏教大学学長就任を辞退し帰国
その玄奘が「旅の最終目的地」としたのがナーランダ仏教大学です。
インドのラージギルからさらに北へ行くと、ナーランダという町があります。
お釈迦様もこの町に立ち寄った事があるとの事ですが、この町で有名なのがナーランダ仏教大学遺跡。
国禁を犯して唐を出発した玄奘は、ナーランダ大学を目指しながら、途中あちこち立ち寄って旅をし、636年、留学を果たします。
玄奘は5年滞在し、最終的には副学長を務めます。
玄奘が訪れ学んだ頃には、学生数が1万人にも及ぶ世界最大の大学だったそうです。
その後、ナーランダの学長就任、つまり、世界最高峰の仏教大学の学長就任を依頼されますが、固辞します。
固辞の理由は、学んだことを祖国中国で広めよう考えていたためでした。
こうして642年帰国の途に就きます。
このように玄奘三蔵法師の旅は、「往路は自分の学究心のため、帰路は祖国での布教のため」と云われています。
瑜伽唯識(ゆがゆいしき)の教え
玄奘三蔵の最も究めたかった事は、「瑜伽唯識(ゆがゆいしき)」の教えでした。
その教えの流れを継承している宗派が法相宗[ほっそうしゅう]です。
彼によって開かれた法相宗は遣唐使や日唐求法僧によって奈良へももたらされ、南都仏教の花を咲かせたのでした。
現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の鼻祖に当たります。
昭和17年に玄奘三蔵のご頂骨が発見された。
薬師寺も玄奘三蔵と深いご縁のある事から、ご分骨を拝受し、平成3年に玄奘三蔵院伽藍を建立しました。
また、玄奘が遷化して1350年目の節目の年に、法相宗大本山薬師寺では玄奘1350年御遠忌法要が2日間にわたって行われました。
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鳩摩羅什(くまらじゅう)以後の翻訳を、「旧訳」といい、これまでのを「古訳」といって区別されます。
玄奘以後を「新訳」といいます。
現在日本で広く読誦されているのは7世紀に玄奘三蔵が訳したものです。
中国仏教史上、四大翻訳家と呼ばれる四人のすぐれた訳経家
不空(くふう)多くのお経を翻訳していて165タイトルあります。
翻訳数が100を超える人は、不空と施護(せご)です。
施護は102タイトルです。
不空、鳩摩羅什、玄奘、眞諦、この四人を四大翻訳家といいます。
344~413 |
鳩摩羅什 (くまらじゅう) |
44タイトル |
499~569 |
眞諦 (しんだい) |
19タイトル |
600~664 |
玄奘 (げんじょう) |
37タイトル |
705~774 |
不空金剛(ふくうこんごう) |
165タイトル |
鳩摩羅什(くまらじゅう)344~413
4世紀の末に、シルクロードを通って西域(現在の中国のウイグル自治区)から中国に渡り、仏教を伝えた渡来僧。
父はインド人、母は亀茲国王の妹だった。
7歳で出家し、9歳でインドに渡り仏教を学び、大乗仏教を修めた傑僧として知られている。
眞諦 (しんだい) 499~569
西インド生まれで中国に渡来した訳経僧
玄奘 (げんじょう) 600~664
省略
不空金剛(ふくうこんごう) 705~774
十四歳の時、金剛智にめぐりあって、弟子となる。 金剛智は、手に印契を結び、口に真言を誦え、心は三摩地に住する三密修行の法を授け、五智すなわち金剛界系密教の奥義を教えた。
密教の伝持の八祖のお一人。
伝持の八祖とは,猛菩薩→龍智菩薩→金剛智→不空→善無畏(ぜんむい) →一行(いちぎょう) →恵果(けいか)→弘法大師空海をいい、歴史的に密教の伝持弘通(でんじぐずう)に努められたお祖師さまです。
古代インドで成立した『般若心経』は、原典は2種類あるとされる。
中国ではこれが10種類程度訳された。
最初に訳したのは鳩摩羅什。現在最も広く使われているのは、玄奘三蔵法師の訳したものでです。
「般若心経」初心者のためのやさしくて詳しい解説シリーズ目次 全8話
1 「般若心経」とは?初心者のためのやさしくて詳しい解説(第1話)
4 般若心経の漢訳や西遊記を書いた玄奘三蔵法師とはどんな人?(4話)
6 般若心経の寸劇の舞台設定場所とは?インドのマガダ国(6話)
7 般若心経の構成(第7話)
8 全文訳(第8話)
最後までお読みくださりありがとうございました。 アンジュールのノマー
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