般若心経の寸劇の舞台設定場所とは?インドのマガダ国(6話)

「般若心経」初心者のためのやさしくて詳しい解説 その6

般若心経タイトルイメージ図

般若心経の舞台設定について

実はどのお経(大乗経典)もそうなのですが、般若心経もまた一幕のドラマ(劇)だと云われています。 

場所

王舎城(おうしゃじょう)の霊鷲山(りょうじゅせん):

お釈迦様時代のインドのマガダ国の首都にある小高い霊山

登場人物 霊位の高い順に記載) 

●お釈迦様(般若心経には直接登場しません

●観自在菩薩様(かんじざいぼさつ)

如来になる手前の仏様ですが、観音様は如来になる資格があるにも関わらず衆生救済の菩薩業を敢えてなされている仏様 

ここでは、卓越した在家の求道者の一人として登場します

●舎利弗(シャーリプトラ、智慧第一の阿羅漢 お釈迦様の十大弟子のお一人)

ここでは、比丘(びく)の出家修行者として登場します。

 

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舎利子がお釈迦様の弟子になるきっかけとなった有名な話があります。

成道後のお釈迦様の最初の弟子となった五人の比丘の中に、アッサジ(漢訳名「馬勝(めしょう)」)という名の人がいました。

ある時、

王舎城に托鉢に来ていたアッサジの姿を見て、その気高さに心打たれた舎利子は「あなたは誰を師とし、どのような教えを身につけているのですか」と尋ねます。

アッサジは、「私の師はお釈迦さまです。私は弟子入りしたばかりで、まだ少ししか学んでいないのですが」と言って、披露した言葉が伝わっています。

「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」
「これがあるから、あれがある。これが生じるから、あれも生じる。これがなければ、あれはない。これがなくなれば、あれもなくなる」

ということになります。

意味としては、

全ての物事は縁によって起こり、生じていますが、その縁も一方的な働き掛けではなく、縁そのものが他の縁によって働き掛けられているのです。

「ある条件が調うことによって成り立つ現象は、その条件が失われれば成り立たない(存在しない)」というような感じでしょうか。

有名な句です。

アッサジ比丘を通じてお釈迦様の教えの一部を聞いたとたんに預流果(よるか:悟りの最初の段階)に達したと伝えられています。

●お弟子さんたち(般若心経には直接登場しません

 

物語

昔々、まだお釈迦様がご在世の頃のお話です。

ある時お釈迦様は、お釈迦様に仏道を学ぶ沢山の弟子達と王舎城(おうしゃじょう)の霊鷲山(りょうじゅせん)の頂に登りました。

そこはお釈迦様が好んで説法されたと伝えられる実在の山です。

皆が説法が始まるのを待っていると、お釈迦様は、広く深い悟りの瞑想に入られました。

霊鷲山は静まり返り、お釈迦様の瞑想の波動が伝わってきます。

この時、観自在菩薩という在家の求道者も瞑想に入ります。

そこで観自在菩薩は、ある修行を完成するのです。

そこに居合わせた舎利子しゃりしという名の出家修行者が驚嘆し、観自在菩薩のもとに近づいて訊ねます。

「どうか私に、その境地と修行法を教示して下さい」。

このあと観自在菩薩が語る内容が、この物語の全体を構成しています。

「私、観自在菩薩は、人間を作っている五蘊(ごうん)という五つの集まりが、実は空だと悟り、あらゆる苦難から逃れたのです 」観自在菩薩が舎利子の質問に答えます。

「舎利子よ」と語りかけ、『五蘊皆空』の説明が始まり、その具体的な内容が告げられます。

なぜそのような素晴らしい眺望が得られるかというと、これが『般若波羅蜜多』と称する真言を念誦する修行の成果にほかなりません。

三世の諸仏も同じようにして最高のさとりを得ているのだとして、

「故知(ゆえに知るべし!)」と続きます。

それゆえにどう知るべきだというのでしょうか?

『般若波羅蜜多』は、いかにすぐれた真言であるか。

「これこそ大神咒であり、これこそ大明咒であり、これこそ無上咒であり、これこそ無等等咒であると知るべし!!!」と、賛辞が連ねられます。

「では、その 真言はどういうものか、お教えいたしましょう!!」

「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆呵(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)」

「祈りの言葉、この真言を誦(とな)えることです」 

こうして観自在菩薩という在家の求道者が語った言葉が『般若心経』となったと云われています。

お釈迦様も目を開け「その通りだ」と観自在菩薩をほめたたえ、それを聞き弟子達が悟りの歓びを分かち合ったという場面が最後に記されているのです。

 

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概要

『般若心経』は、インドでつくられた仏教のお経ですから、古代インドの言葉『サンスクリット語』で書かれたもので、その意味は、どのようなものかと言うと『般若』=『智慧』(ちえ:物事を正しく捉える力)つまり【智慧のお経】です。

正式な名前は「般若波羅蜜多心経」(はんにゃはらみたしんぎょう)と言います。

智慧の完成に関して一番大切なエッセンスを取り出したお経です。

大きなものは『大本』と云って、『完全な形のお経』としての般若心経が存在します。

それは『大般若波羅蜜多心経』と云い、600巻もありますが、般若心経はこれと全く同じ意味の根幹をなしています。

私たちの知る『般若心経』は、玄奘訳のもので『小本』です。

『略されたお経』なので、『小本』はいきなり本文から始まっているわけです。

『小本』にはお釈迦様は一度も登場しません。

登場人物は観自在菩薩と舎利子だけです。

これに対し『大本』には、このお経の序文というべき前段が記されています。

その序文にはこのお経の舞台設定が記されています。

実はどのお経(大乗経典)もそうなのですが、般若心経もまた一幕の寸劇だと云われています。

この登場人物の観自在菩薩と舎利子の対話を作り出しているのは、ほかならぬ瞑想中のお釈迦様なのです。

要するにお釈迦様が語るべきことを、お釈迦様の意を汲んで観自在菩薩が舎利子に向かって説く、というのが般若心経の中心場面となっているわけです。

語り終えると、お釈迦様が「その通りだ」と観自在菩薩をほめたたえ、それを聞いて聴衆が喜ぶ場面が『大本』の最後に記されています。

 

登場人物の霊位(階層)(レベル)設定

登場人物をあえて、お釈迦様の悟りの修行を階層のようなもので上下に分けてみます。

例として、4階建ての仏陀ビルディングという名称とします。

華厳経のように、修行者が菩薩の位を得てより仏陀(悟りの境地に達した者)に到る過程を十段階に区分した、十地の境涯が説かれています。

初地・歓喜地から第十地・法雲地到るものです。

その修行段階を上下方向の各フロアーに例えて観ます。

当然、屋上が仏陀の悟りの境地に達した人々のフロアーです。

 

1階・・・世間一般の人のフロア(無関心・無明・無意識の領域)

仏教に全く関心のない無明の人々
無明とは、人間が根本的に持っている無知のこと。人生における人間の苦しみは、
すべてこの無明から始まることをお釈迦様は、瞑想の中から発見しました。

般若心経には登場しません

 

2階・・・在家修行者レベルのフロア(自己形成の領域)

一般在家修行者・仏縁に恵まれた初地の人々

般若心経には直接登場しません

 

3階・・・出家修行者レベルのフロア(無我を知る領域)

舎利弗尊者(悟りを開いた阿羅漢ですが、比丘の一般僧の出家修行者として登場)

 

4階・・・菩薩レベルのフロア(空を観る領域)

観自在菩薩様(菩薩様ですが卓越した在家の求道者として登場)

 

屋上・・・仏陀レベルのフロア(人知を越えた眺望の領域)

お釈迦様:「如来」という最高位、仏陀という「悟りの境地」を得た後、

その法を伝えんとして教えを説法し、多くの衆生を救おうとする存在です。

般若心経には直接登場しません

 

出家と在家とは:

出家をするというのは家を出て、お釈迦様の弟子になることですので「出家する」と言います。

在家は、「在家信者さん」と言ったりしますが、いわゆるお寺ではないけれども仏縁に恵まれて、家に在りながら仏法僧の三宝に帰依されてる方を言います。

 

般若心経の究極のメッセージとは

般若心経には観自在菩薩と舎利子のふたりしか登場しません。

しかし、このお経は観自在菩薩が舎利子に語りかける(教えさとす)というドラマですから、両者の間にはレベルの相違があります。

具体的にいうと、 「五蘊あり」という景色は、舎利子のいる3階の出家修行者レベルのフロアで得られるものです。

それを踏まえて得られる「すべては空」という景色は、観自在菩薩のいる4階の菩薩レベルのフロアに至って初めて会得されるものです。

ところで、

この対話を作り出しているのはお釈迦さまの瞑想だったわけですから、当然、観自在菩薩の上に仏陀のレベルがあります。

そこが「仏説」の位置です。

ただし、そこは人知を越え、全方位に眺望のきく最高無比のレベルですから、「5階」ではなく、やはり「屋上」とするのがふさわしいでしょう。

4階は。菩薩様ですが卓越した在家の求道者として登場します。如来になる手前の仏様です。

3階は。舎利子はすでに3階のレベルに達しています。お釈迦さまの十大弟子の筆頭と呼ばれたすぐれた出家者です。

その下の2階は、一般在家修行者・仏縁に恵まれた初地の人々です。

最下階の1階は、世間一般の人々に相当するでしょう。
普通の人々はこの世間に生きています。
それは普通の世界です。
お釈迦様は、無明とは、人間が根本的に持っている無知のことである。
人生における人間の苦しみは、すべてこの無明から始まることをブッダは、瞑想の中から発見したと云います。
無明をまだ知りません。

 

お釈迦様も人の子として誕生し、世間一般のレベルから出発したのです。

そして人の子として成長し、修行のすえに、ある段階を経て仏陀となりました。

その段階を象徴的に、舎利子のレベルと観自在菩薩のレベルとしたのが般若心経なのです。

そこで問題は階上への階段です。

どうやって階段を昇るのか? もちろん、答えは用意されています。

般若波羅蜜多が、階段です。

具体的には、「掲諦、掲諦、…」の真言を念誦すること。

この「般若波羅蜜多」と称する真言(心、心咒)こそが、階上への通路なのだというのが、般若心経の究極のメッセージです。

最上階に至った観自在菩薩が舎利子に伝えたのは、まさしくこのことでした。

 

「般若心経」初心者のためのやさしくて詳しい解説シリーズ目次 全8話

1 「般若心経」とは?初心者のためのやさしくて詳しい解説(第1話)   

2 般若心経の国民的な人気のお経の伝来とは?(第2話)

3 般若心経をお唱えする宗派とお唱えしない宗派(第3話) 

4 般若心経の漢訳や西遊記を書いた玄奘三蔵法師とはどんな人?(4話)

5 般若心経を漢訳した玄奘三蔵法師の音写と漢訳とは(5話)

6 般若心経の寸劇の舞台設定場所とは?インドのマガダ国(6話)

7 般若心経の構成(第7話)

8 全文訳(第8話)

 

 

最後までお読みくださりありがとうございました。 アンジュールのノマー

 

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